プロフィール
1989年ワーホリでバンクーバー到着。一週間で旅行業就職とアパート契約、そして自家用車をゲット。ワーホリ2回目の時、夢だったキャンプ大陸横断往復実行。
ワーホリ3回目を却下されるがワークビザ3年物をゲットし、その後永住権も取得。
当初よりのブレない趣味、スキー、ランニング、トレイルラン、それに危険?長距離一人登山・ハイキングも加わり仙人に近づいてしまった。
遠い遠い世界に行かないように注意しようっと♪
回想 「89年ワーホリから今」
1989年ワーホリとして到着
1989年3月にワーホリ(永住権取得目標)としてバンクーバー空港に降り立つ。
当時は直行便の成田バンクーバー路線は少なく値段も高い為、比較的安価なデルタ航空で成田からアメリカ国内2回乗り換え便に搭乗。航空会社の都合により乗継地で別ルートに振り替えられ、乗り換えも増えバンクーバーに到着。
そのせいか完全ロスバゲ(Lost Baggage)、今でこそ旅行業界に従事しているので、ロスバゲは驚きもしないが当時は初めての出来事でビビる。がしかしここで凹んではいられない、某省庁を退職して来たのはなんとためだとカツを入れ、日本出発前にいくつか調べていた宿に電話をかけ寝床の確保とロスバゲの転送先を設定。
当時はインターネットはなく書籍頼りで、始まりは比較的安価な Bosman's Motor Inn (その後名称は Hotel Bosman's Vancouver)に1週間滞在、場所はダウンタウン、NelsonとHelmckenの間のHowe通り。
初めての Root Beer
ロスバゲのごたごたと旅の疲れでロビー階の自販へ直行、目的はビールのゲット。
今でこそBC州の酒類販売規則を理解してるが、当時は知識もなく日本と同様、自販機でビールが買えると思っていた。
ロビー階の自販機を見ると Cola の横に Beer の文字、そう、あれ、Root Beer、全く疑うことなくビールの一種類と勝手に思い込み早速購入。
部屋に到着するやいなや、プシューッ!ビールを飲むように、口ではなく喉めがけて冷たい液体は流れ込み、、、、。期待していたものと全く違う独特な香りと味。口から噴き出す、鼻から出る、涙も出る、幾度うがいをしても残るあの薬品のような香り。人生三大ショック!その後夢にも複数回登場し、トラウマと感じた。
このままだと Root Beer が悪役と思われてしまうので一言。
今は Cola より Root Beer 。夏の暑いときに Gas Station 付随のセブンイレブンで購入する9割が Root Beer
。さらに車で小さな町に入った時はA&W を探し、そこでガチガチに冷えたジョッキーに注がれた Root Beer ー旨い!
人間の趣向・味覚が変化すると実感
バンクーバーに降り立ち既に数年経過、その間こちらの赤青黄バッチリ原色使いの、尚且つナイフを入れるとジョリっと砂糖たっぷりのケーキと、頭痛がするような鬼甘いチョコレートケーキを食べて慣れていた。
日本バブル期のお客様と行く高級レストランと料理、ケーキも落ち着いた味と思っていたのは私だけ。
アメリカ旅行慣れしたお客様は、こちらのケーキが日本のそれと違うことを予想し、先にガイドに食べさせ、甘いかどうか聞いてから食べようと思っていた。ところがガイドの答えとお客様が食べた感覚との差が多きく、やはり甘いねぇと言われることが多くなり、味覚が変化していると実感。
Canadian Maple 、Boston Cream (Tim Hortonsのドーナッツ) もおいしいと感じ、将来、酒のつまみになってしまうのだろうか、今は想像も出来ない。
アパートと仕事のゲット
Bosman's Motor Inn 滞在中の1週間にアパートの契約と仕事をゲットの目標を立て行動開始。1989年日本バブル景気で「お金を使わないのは損」的な状況、バンクーバーに降り立つ日本人観光客も中国、韓国(当時韓国人観光客はほとんどいない状況)を含むアジア圏の中では圧倒的数を占めていた。
その日本人観光客が多い状況に比例し、日本食レストラン、日本語お土産屋さん、旅行インバウンドオペレーター業、日本語ガイド業等、今では想像も出来ないほど日系会社の数も多く、仕事はワーホリでも山のようにあった。
前年1988年初夏に観光でカナダに来た際、バンクーバー、ビクトリア、ロッキー、トロント、ナイアガラ旅行でロッキーはレンタカーを使い、旅程を自分で組み立ていたせいか、日本人観光客のディストネーションの知識と記憶もかなり残っていて小さなガイド会社に就職。
日本出発前に国際運転免許証を取得し、大型1種(漠然とした夢で日本国内RV走破、後にカナダ大陸横断に実行)も持っていたお陰で国際運転免許証カテゴリーはすべての車両が運転出来る欄にハンコが押された状態でゲット。
こちらの会社でそのまま小さなバスも運転出来ると言われ、少数のお客様のドライバーガイドからバスガイドまで忙しく働いた。その間こちらの2種運転免許証を取得し(当時書き換えは出来なく0から取り直し)、必要と思われるカナダ資格取得を意識し始める。
また日々アパート見学も同時進行、当時ダウンタウンでも Vacancy、Room for Rent の表示も多く、Bachelor (ワンルーム部屋)で C$390/month が複数件あり、アパート契約も比較的簡単に終了。現在このような家賃は全く想像も出来ない。
仕事もアパートも決まりひと段落、しかし契約したアパートの部屋には何もない。ところが、お知り合いになった長年滞在している永住者のWさんのご助力により、自家用車で数か所回っていただいたお陰で、寝具、キッチン器具も安価で購入出来た。Wさん今でも非常に感謝しています。
ハードウッドフロアーにベッドなしの数日間
契約したアパートに何もない状況でで暮らし始め、あるのはロスバゲ手続きにより受け取ったハードスーツケースをテーブル代わり、それと寝具、掛け布団、毛布、シーツ、枕だけ、ベッドはなし。
ハードウッドフロアに掛け布団を敷き数夜寝たが、寝返りを打つたびその痛さに何度も目が覚め、後にベッドを手に入れその上で寝た時は、お花畑スキップ状態、天国の寝心地。
1989年 ワーホリの情報収集手段
1986年にカナダワーキングホリデー制度が出来、1989年はダウンタウン地区でも日本人ワーホリは少なく、日本語需要もないので銀行の日本語対応はなく、インターネット・携帯電話もなく、連絡手段は電話だけで、契約必須事項。
情報収集は当時ネルソン通りにあった、日本語書籍を唯一扱う、ソフィア書店(閉店)で購入するバンクーバー新報。 クラシファイドや広告欄に求人を含む様々な情報があり、大変重宝した。 また、他のワーホリとの直接コミュニケーションも大きなウエイトを占めた。
当時あったかどうかさえ分からない留学情報会社(永住権取得後就労経験あり)の存在も、長期間知らないまま。ワーホリと語学留学生の増加に比例し会社も増え、意識され始めたのかなぁ。おんぶにだっこじゃ前見えないよ、自分自身で行動と検証するのみ。
自家用車購入 目標の大陸横断実行
一か月たつか経たないかの早い段階で自家用車の必要性を考え車のゲット。
1981? Pontiac LeMans 4 Doors 4.3L V8 どでかい排気量、さらに北米フルサイズセダン、ベンチシートで室内幅もびっくり、エンジンルームがやたら大きく、ノーズが長い、イグニッションキーを回すと日本では聞いた事がない低いトルクの音、速攻現金
C$2000 。購入場所は車両整備工場。今だったら聞くよ「これ廃車直したの?」
これによりドライバーガイド仕事で初めて行く場所も、自分の時間を利用し下調べが出来た。もちろん休みが出来たら 500 km 日帰りドライブは当たり前、冬にはロッキーのバンフに泊まりながら、サンシャイン、レイクルイーズスキー場も経験。
今だったらあんな後輪駆動の、あのタイヤの状況で、絶対冬道は運転しません。
当時もサンシャインスキー場に行く途中、側溝に落ち Tow Truck (レッカー車)のお世話になった、この程度で良かった~。
更にワーホリ2回目の1991年、長年の夢、キャンプによる大陸横断もこの車で達成。
バンクーバーからPEI(プリンスエドワード島)、復路は米国道路を利用の往復18000 km 走破、素晴らしい経験が出来感動。後にこの車は、同様の夢を持ったワーホリに安価で売却。ありがとう、愛車
LeMans !
しっかり働き貯蓄
ガイド、ドライバー、ドライバーガイド業では、仕事がある時は働き給料が発生し、仕事がない時は休みで給料は発生しません。
当時は日本人観光客が多い時代で働く時間も多く、更にワーホリ相場以上いただいたお陰で、しっかりと貯蓄も出来、後にダウンタウンコンド購入(当時はそんなに高くはない)に繋がる。ここから現在まで、売り買いをし不動産バブルの波に乗れ、沈せず現在進行形、不動産見学は今も趣味。
ランニング・ハイキング趣味の流れ
ガイド業はいつ休みになるかにわからないので、友人と一緒に行うようなスポーツの約束しにくい事が悩みの種。
学生時代からランニングしていたせいか、それに費やす時間が徐々に増えた。近くにはスタンレー公園があり、最初は Seawall をランニング。土日に人が多いのを避け、スタンレー公園の森をランニング。木のにおい、森の香りを感じながらで更に好きになり、トレイルランのきっかけ。
ストイックな性格も手伝い人生初つの 42K 、1994年 Vancouver Int'l Marathon 42k 3時間24分で完走、その後も含め Vancouver Int'l Marathon 合計15回完走。
2015年から Seek the Peak トレイルランに移行、ディビジョン 4-6 位。
老いる時間と古傷の半月板損傷(手術していない)と格闘しながら、3位入賞を目標。
トレイルラン移行理由は三つあり、
一つ目は Vancouver Int'l Marathon 開催日が5月の最初の日曜日、3月からスキーの時間を削り、ランニング時間を増やさなければいけなく、雪があるならスキーを続けたいと思い始めた。
二つ目は、Seek the Peak は比較的新しいレース、開催日は6月中旬でスキーが終わってもトレーニングが間に合う日取り。
三つ目は、常日頃からのランニングは現在住んでいるバーナビーでもトレイルラン。これら三つの理由により現在はトレイルランに移行。
初夏オープンから冬季閉鎖になるまで Grouse Grind 週一回目標。
2020年8月10日に5年越し目標サブ40、39分45秒達成(こちら記事のタイム参照)。同年10月17日も39分51秒。
トレイルランの延長線上で登山・ハイキングも趣味に加わり、一人で長距離、急勾配な場所に行く機会が増え、もちろん黒熊には出会い、ランニング成果で二日かかるトレイルも、日帰りであちこち移動でき満足度増加。
ただ一人なので、何か起きても誰も知らないままになるのがちょっと心配。
天秤にかけると、天気と景色が良い時は仙人が良いっ!
スキー趣味から仕事に繋がる
小4-高卒まで札幌在住間に父親とスキーをしたのがきっかけで、内地に就職後も高速夜行バスを利用しながら「ちょこっと」スキー。バンクーバー到着後も時間を見つけては、自家用車でローカル山やウィスラーを趣味で「やや増え」スキー。
その後仕事上でもドライバーガイドでウィスラーに滞在、翌朝スキーガイド仕事が入り始める。日本バブル景気・海外スキーツアーの波に乗り、冬季は○○ツアー代表としてウィスラーオフィスを任され、「いっぱい」スキーの人生楽しい状態。ウィスラー滞在中に速攻でスキーイントラレベル 1、2も取得し、後に繋がる。
当時の所属会社の指示でバンクーバー勤務となり、冬季もドライバーガイド仕事が多くなりスキーの機会が激減。このままではスキーから離れてしまう、なんとかスキーを続けたいで、サイプレス山にスキーイントラで所属しカナディアンに教え始める。その年により契約は週1回又は週2回。
ガイド業とスキーイントラで時間は無くなるが、スキー復活出来た事の方に軍配が上がった。サイプレス離れて10年後とある会社で働いた際、「以前サイプレスでスキー教えていた?」と聞かれびっくり仰天。そのお子様を教えた事があるようで、お母様は覚えていて下さった。当時日本人イントラはいないから覚えやすいョ。
結局サイプレス10シーズン、その後のグラウス5シーズンでスキーイントラの経験が出来、教える事に楽しみ発見。
現在所属している旅行会社でも数少ない日本人スキーヤーの為、日数は少ないがウィスラーアコモに宿泊しながらスキーガイド、スキーが出来て感謝。
バンクーバーにいる際は、グラウス山のパスもあるのでグラウス山スキーも現在進行形。カナダ到着してから夏のランニングと冬のスキーでブレなし、ストイックな性格のお陰です。
スキー事故死
ワーホリウィスラー滞在中に、他社ワーホリスキーガイドがスキー事故死する事件もあり悲しい思い出もある。
あの日一報をくれたのは身内のスタッフ、ウォーキートーキーから聞こえる言葉は理解不能。感度・明瞭度の問題ではなく、送信している側が言葉になっていない。彼と一緒に滑りながら、彼はコースアウト、木に後頭部から激突と伝えたかったと後で分かった。
当時はヘルメットではなく、せいぜいトゥーク( toque つばのないニット帽子 カナダ表現)かキャップ、もし現在のようにメットがあったらと悔やまれる。
ビザ・ステイタスの流れ
当時ワーホリ2回は当たり前、私も2回取り、3回目は面接で却下。理由はバンクーバー、ウィスラーで仕事中心の為、ワーホリの趣旨にそぐわないとの事。
ワーホリ却下の可能性も考えられ、2回目終了が近づいた際、既に数社で働いていた為、とある旅行会社から3回目がだめだったらワークを出すから来いとうれしいことを言われていた。
結局そこでワークビザを出してもらい、通常ワークビザは半年又は一年更新。面接官が私の経歴、某省庁勤務時代を質問しながら「ワークビザで何年いたいのか?」、「3年」と答えたところ、そのまま3年の珍しいワークビザをゲット。
ワークビザを出してもらうという事は、その会社が英語で求人広告を出し、このような人材がいないので、この者にワークビザを与え働いてもらわないと、弊社が困る旨をカナダ政府に申告が建前。
その会社で手間、暇、お金かけて出してもらったので、数か月ぶっちぎり勤務は当たり前。本来の夢、永住権にグッと近づいたが、きびしかったなぁ。
ワークビザ3年目に個人で弁護士を雇い、永住権ゲットするぞ~。
点数制度ですべて問題なく、残る切り札は Permanent Work Permit を会社社長から書いていただく事。
ワークビザだとその会社だけでしか働けないので、安い賃金、長時間労働可能人材で、鳥かごの鳥。ところが、永住権取ってしまうとどこでも働けるので、鳥かごを飛び出せる鳥。
このプロセス、会社といろいろやり取りがありました。書き下すことが出来ない内容で、ほんとにいろいろ。個人で雇った弁護士費用は、C$3300 。
何はともあれ Permanent Work Permit を書いていただき、申請書提出。面接もなく最終目的の永住権ゲット、やったー!もちろんその後の市民権は問題なし。
所属会社の推移、オリンピックは某TV局
ワーホリで到着時、日本はバブル景気で、どの業界でも日本人観光客が多いので稼ぐことは簡単な時代を経験。就職した旅行業界は花形業界と思っていた。
1995年以降日本人観光客数減少を肌で感じ、それに比例し、お土産屋も一軒消え、日本食レストランも一軒消え、旅行オペレーター会社も一軒消え、だんだんと消えていく会社数、それに比例し、ガイド仲間も日本帰国又は職種変更で一人また一人減り。
私が所属していた会社もなくなり、あっち声かけられ無くなり、こっち声かけられ無くなり、単発で仕事をいただいたところも含め、お金をいただいたことがある8社が無くなった。
若い時代モゲージ(家のローン)の支払いで働かなければいけない時に、AC長期ストライキ、SARS等の煽りを受け、旅行業は仕事がなく、他職種をメイン収入としながら、休日にガイド業を受け旅行業界に身を置き続けた。
2008年日本某TV局から話があり、 2010バンクーバーオリンピック 某TV局コーディネーターとして、聞こえは良いがドライバーを含む何でも屋として、パラリンピックまで直接契約で仕事を続け、貴重な経験が出来感動。アイスフィギアスケートの選手も私の運転する車に乗っていただき、おもしろい話も聞かせていただいた。
オリンピック期間中、物品を扱う別職種の就職話も決まり、オリンピック・パラリンピック終了後間髪入れずに転職、5年弱勤め首を痛め退職、ドクターノートで失業保険。退職し5か月経つ頃には体調も回復し、すべての面で余裕も出てきた。
2002年から始動した自営業(2014終了)は成功。つまり時期によっては、会社勤務、ガイド業、自営業と三足のわらじを履いていた事になる。
ワーホリで到着して以来、旅行会社は全て小さなところを働き続けたが、失業保険静養中に、以前一緒に働いていた同僚からの紹介で、今の旅行会社で復活。
ワーホリ時代から会社を移り変わる間、一緒に働いた上司や同僚、他社の知人、いるわいるわ、皆様ここにいたのね状態でビックリ。
ガイド業復活は感動の一語で、かつて一週間で4回行った事があるビクトリア、数えきれないほどのバンクーバー観光、行くとこすべてが新鮮で、色も違って見え、持っている携帯で写真をバチバチ、今もバチバチ。空港ロビーに立った時もバチバチ。
物品業界5年弱、旅行仕事を受けたのは最初の1、2回だけ、その時、反応がある人間と物品の違いか、やはり楽しいと感じた記憶が濃厚。その後旅行仕事は受けず月日は流れた。
自分の変化か、若い時代は稼がなければいけないから、現在のちょっと余裕に変わり、楽しもう、楽しんでいただこう、情報を共有していただこうかなぁ。
仕事がなければないで、トレイルラン、ハイキング、冬のスキーと楽しめ、相変わらず人生楽しい状態。この回想も歴史に残るだろう2020年10月中旬に書き下ろしている。
考えれば、コロナ禍で2020年3月12日から仕事はなし。
アウトドア活動とウェブサイト復活スキル向上、人生楽しい状態、皆様と環境のお陰です。
明日も充実っ!





